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【40代からの起業】サラリーマン人生を振り返る

どのようにサラリーマン人生を送ったのか
この記事は約6分で読めます。

自分の人生を振り返ってみます。
昔持っていた夢、今はもうあきらめてしまった夢。
今思い出すとできそうな気がします。

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就職してサラリーマンになるまで

履歴書

地方で生まれ、東京で育ち、また地方へ帰ってきて、地方の高校、地方の大学、地方の企業に就職しました。世間的に言えば「順当」で「親孝行」で、真面目に生きてきた人生です。自分で言うのもなんですが…。

就職するまで、なんとなく自分の店を持ちたい、世界中から仕入れをして販売したい、インテリアショップがいいな、おいしいコーヒーでも飲みながら雑貨屋もいいな、とか漠然と夢みたいなものはありました。

でも、当時はどうやってやるかのノウハウも度胸もなく、周りがそうするように合同説明会に行って就職活動をしていました。その結果、地元ではまあまあ有名な小売業に入社することになりました。第一志望かと言われると、実はそうではなかったのですが。

そもそもなんで小売業にしたのかというと、店舗運営や仕入れ、販売の事が学べて身に着くからです。なかなかせこい考え方ですけど、いつかの夢の為に力になる業種を選びました。

特に、商品の仕入れをする「バイヤー」という職種を強く望みました。バイヤーを経験すれば商品のことはもちろん、仕入や販売、数値分析まで得るものが多いと判断した為です。

この選び方、今思い返すとあの時の自分を褒めてあげたくなります。

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店舗に勤めていたころ 22~26歳

小売業ですから、まずは店舗へ配置されます。そこで先輩社員からイロハを学びながら、接客、発注や品出し、売場管理をしていくわけです。

学生時代に飲食店のホールでアルバイトをしていましたから、接客はなんとなく想像できたのですが、発注や売場管理はやったことが無いので、毎日が刺激的で楽しかったのを覚えています。

明日は、今週は、今月は、来月は、どの商品(カテゴリー)をどの売り場でどのくらい販売しようかと計画をを立てて、発注をし、売場を作成し、品出しをして販売します。今日は売れたとか売れなかったとか反省しながら、また次のフェーズへ修正をしながら入っていくの繰り返しです。

この企業は若いうちから店舗でのPDCAを任せてくれるので、責任感と同時にやりがいを感じながら日々過ごしていたのを思い出します。

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転勤を2回し店舗経験も4年が過ぎようとしているころ、当初目指していた「バイヤー」にはいつなれるのかと疑問を持つようになりました。店舗で発注できるのは本部の商品部バイヤーが仕入れてきたものだけです。そして多くの売場の陳列方法もバイヤーが決めています。

店舗でできるのは、このバイヤーが仕入れてきた商品で、店舗裁量が認められているごく一部の売場を創ることのみです。

私がやりたかったのはあくまで「バイヤー」です。このままではいけないと思い、どうしたらバイヤーになれるのか考えました。ちょうど私が所属している部門でバイヤー主催の飲み会があるというので参加してみました。

ここで現役バイヤーに「私もバイヤーがやりたい」と正直に話してみたところ、次回の仕入れに連れて行ってくれることになりました。

今でも忘れませんが、それは京都の仕入れ先で、昼間は商品を見ながらあれやこれやと決めて、数量を決めて価格交渉をしてと現役バイヤーの仕事振りを真横で体感しました。そして夜は祇園でおいしい食事をいただいきました(笑)この後も、何回かこのような経験をさせてもらい、その後27歳の時にバイヤーの辞令をいただいたのです。

実はこの現役バイヤーの方は部長という役職のついた方でしたので、仕入れという実務を外さなければならない時期だったのです。ちょうどその時私が立候補したというグッドタイミングだったのでした。何事も口に出して動いてみるものです。人生が大きく動いた瞬間でした。

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バイヤーの仕事をしていたころ 27~39歳

メーカーや問屋、商社と対峙しての仕入れ、売場作成の指示書(通称棚割表 どの棚のどの位置にどの商品を陳列するか)の作成、プライベートブランド商品の開発などを行います。札幌、東京、大阪、福岡などの仕入先に行くこともあれば、中国の工場に行って商品開発することもありました。

もともとインテリアが好きだったことと、売場でもインテリアに携わっており、主にインテリアのバイヤーを経験してきました。自分の好きな分野なのですが、自分が好きなモノと売れるものは違うことに早くに気づきました。

有名デザイナーの家具や、北欧テイストの家具を仕入れて売りたいなと思っても、私の勤めていた業態では不釣り合いで売れないのです。自分の好きなモノを販売したいという欲求はいつもありました。

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忙しかったですが、最も責任感とやりがいを感じていた時期です。34歳の時には課長となり数名のバイヤーを束ねるリーダーになりました。自分が今まで学んできたことを教えながら、若い人たちを育てていくのもまた責任感のある仕事でした。

このころには仕入れというよりも、商品や店舗機能を使った新しい横断的な企画に取り組む方が多くなってきていました。

自分の好きな商品と売れる商品は違います。売れる、特にこれから売れる商品を仕入れてくることがバイヤーの使命です。「自分だったらこれ買わないな」というものも仕入れなくてはなりません。

それに自分の好きな商品や色柄は価格が高いです。これは仕入先も私の顔色見てますので「これバイヤーの好みだな」と思ったら少し盛ってきます。これは業界あるある。ただ、その辺はしっかり交渉していくと価格は下がるので、いつも「盛られてるな」程度で受け止めていました。

日本でも中国でも関係なくそうですが、最後は人と人。お互いがファンになれば、「この人のためにいい商品を作ろう」「この人のためにもう100個多く仕入れよう」のようにいいビジネスパートナーになっていきます。お互い長く儲けたいですからね。

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企画の部長になったころ 40~42歳

商品部で課長を務めていましたが、全社的な組織若返りの流れの中で企画の部長に異動となりました。新しいことを起こす部署です。新しいことは大好きなのでいいのですが、商品に携わって仕入れや販売をしていたいという気持ちも正直ありました。

経営企画・戦略、新施策の実行、PR・プロモーションなど守備範囲は広かったです。部下の仕事を管理することも私の仕事でしたが、プレイングマネージャーとして、プロジェクトを回すことが多く、毎日のように他部署のメンバーとプロジェクトを行い、新しい施策を進めていました。

前述の課長時代に横断的な仕事をしてきたこともあり、比較的取り組みやすかったです。新しい仕事は単純に楽しいです。前例がないので自分が論理的に考えたことが具現化されていきますので、わくわく感があります。

部長になったのはうれしかったのですが、偉くなるほど怒られる会社でしたね(笑)管理職が経営層や役員から怒られて、その代わり、若い人ややる気のある人が思いっきりやれる環境がありました。

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まとめ

  • 職歴を棚卸するとこれから役立つものが見えてくる
  • 自分の裁量でできる仕事は楽しい
  • 新しい仕事はわくわくがとまらない

ありがとうございました。